名も知らない彼が、私に接吻を落とす。名も知らないはずはないのだけれど、きっといつも通り私は忘れたのだ、彼の名前を。彼はゆっくりと唇を離すと、ニッ、と笑って再びテレビに視線を落とした。私は静かに洗面所に向かう。
勢い良く蛇口を捻り、どばどばと出てきた水を両手の皿で掬い、唇を擦るように洗う。ごしごし、ごしごし。消えない。再び、洗う。まだ消えない。洗う。まだ。洗う。まだまだ。洗う。汚い、私の唇。
彼の唇が、私の唇に触れたのだ。あの、分厚くて汚らしい唇が、私の唇に。
ポケットから携帯を取り出す。がちゃがちゃと水で滑る手でボタンを押す。ブツッという音の後、凛とした声が聞こえる。
「れーちゃん、れーちゃん、どうしよお、あたし、あたしねえ、」
うん。どうしたの。れーちゃんの声はいつも同じトーンで、私をどうしようもなく狂わせて、落ち着かせる。
「あたしねえ、汚れちゃったのお。腐って腐って、ごみになって消えちゃうのお。れーちゃあん」
ああああん。私は泣き叫んでいた。遠くから向かってくる、足音が聞こえる。来るな。お前なんか、お前なんか。
死んでしまえばいいのよ。れーちゃんの凛とした言葉が聞こえる。神のお告げみたいに、それはいつも正しくて、私の傍にいてくれるものなのだ。
れーちゃん、れーちゃん。れーちゃんの赤く妖しく照る唇が、どうしようもなく欲しかったのです、私は。どうしようもなく焦がれていたのです。ぷっくりと形良く膨れ、緩やかな弧を描く、それが。
きらりと光るカミソリを取って、縦に手首に当てる。
こわいよ、れーちゃん。心の中で呟いたつもりだったのだけれど、どうやら言葉にしてしまっていたらしい。いや、もしかしたら、れーちゃんが私の心の中を勝手に探ったのかもしれない。
「大丈夫。私もすぐに、行くから」
赤色は、ここにあったよ。
(お題拝借感謝)
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