夏椿が咲いた日

 沈默が私たちをそうつと包む。貴方の顏に視線を送る勇氣が私には無く、貴方がどこを向いてゐるか、何をしてゐるのか私は知れません。けれどこの寒々しく心地良い沈默が、そんな私をも包みこんでくれるのでした。

 「醫(医)者になりたいの。水はどう思ふ?」
 さう告げた貴方のK告Fの瞳は希望に滿ち、寶(宝)石にも負けぬくらひに輝いてをりました。優しい微笑みを浮かべながら、貴方は私に問ふ。けれど貴方は、私の答へを求めてはゐない。否、私に答へさせてなどくれなゐのです。
 「どうもかうも、貴方はいつも獨(独)りで何もかも決めてしまふ」
 「さうね、水がさう言ふのならさうなのでせうね」
 ふゝゝと柔らかく笑ふ貴方。けれどもその笑みが、私はいつも艷めいて聽こえてゐました。そしてその笑みも、貴方も何もかもが怖く、そして愛しかつた。

 貴方はごく近くにある窻から外の景色に視線を送ります。そこには何の變哲も無い、見慣れたちつぽけな庭が廣(広)がつてゐるのみ。暗闇の中に、ぽつぽつと二つ三つほど白く夏椿が輝いて見えます。
 「あれ、水が頑張つて育てたのよね。そんな庭があるのに、何も無いのは寂しすぎると言つて。私が椿が好きだと言つたら、夏椿の苗を買つてきて」
 窻の硝子を、まるで夏椿を撫でるやうに觸(触)ります。貴方の夏椿にも負けないくらゐの白い指がくるくるとそしてねちつこく硝子を觸る。貴方はC純な雰圍氣があるのに、時にものすごく煽情的な雰圍氣が溢れ出す。けれど狂はせてくれないのだ。物足りなさを殘し、貴方はいつもの聖女に戾つてしまふ。今も、また。貴方はぱつと腕を下げ、硝子から指を離す。白く纖細な指が毛布の下に潛み隱れてしまふ。
 「珍しいわね。夏眞つ盛りに花が咲くなんて」
 壁に掛けてあるカレンダーを一瞥する。過ぎた日にはペケをつけてあり、Kい印がついてゐない日の先頭は七月二十日。
 「椿、まだ花が落ちないわね」
 「……落ちて欲しいのですか?」
 「まさか」
 また貴方は艷やかに笑ふ。色の薄い撫子色の脣が、緩やかな弧を描く。私はそれから、目が離せなくなつてしまふ。貴方に視線を合はせるのも、一度合はせた視線を離すのも私にはとても勇氣のゐることです。
 「椿が一年中咲く花なら良いのにね」
 「……よつぽど强いものでないと無理でせう」
 「けれど寂しいわ。一度咲いて枯れてしまふのなら、一生枯れないか一生咲かない方が誰も寂しく無いと思ふの」
 はふ、とわざとらしい溜息を貴方は吐き出す。弧を描いてゐた脣が、開く。私は貴方の動きを一つも見落とさないといふかのやうに、ぢい、と貴方を見つめる。
 「どうして花は咲くのでせうね」
 伏し目がちに貴方は夏椿を見つめます。見惚れてゐるやうにも見え、私は格好惡いことに花に嫉妬してしまふ。くたばつてしまへ。花に心の中でそんな酷いことを告げるのでした。
 「醫者にならうとしたら、きつと貴方とは離ればなれね」
 さう言はれるのを、私は恐れてゐた。このどうしやうもなくもどかしい、貴方に屆きさうで屆かない距離をさらに貴方は離すと言ふ。嫌だ。けれど、貴方はもう決心してゐるのだ、殘酷なことに。
 「……私を共に連れて行くといふ選擇は?」
 「駄目よ。そんなの」
 「どうして」
 「だつて、戀人同士でも、夫婦でもないのに」
 では、戀人同士になれば良いですか。さう言へぬ私は弱蟲なのでせうか。じくじくと痛み、騷ぐ心が、しんと靜まる。諦めなのでせうか、これが。
 「可笑しいでせう」
 「可笑しくなど」
 「可笑しいわ。貴方と私は離れて、私は醫者になり、誰かと結婚して、貴方も誰かと結婚する。これだけなのだわ」
 「……貴方は先程、かう言つたではないですか。咲いた花は、一生咲いてゐれば良いのに、と。私はもう、咲いてしまつた」
 空氣を吸ふと、鼻に鈍い痛みが走る。視界がぼやける。私は、私は泣いてゐるのでせうか。貴方はぽかんとした表情は一瞬浮かべ、そして私へ殘酷な笑みを向けました。
 「御免なさい。私、貴方を殺してしまつたのね」
 貴方が寢牀から立ち上がり、私の傍へと腰を下ろす。冷たい牀が貴方の白い足を犯す。いけない。けれど私は今は、誰でも良いから彼女を狂はせて欲しかつた。誰か、嗚呼。
 「私、貴方をからかつてゐたのかもしれない。純粹な少年を見て、壞したい衝動に驅られたのね。犬を自分だけに懷かせたくなる、そんな感じよ」
 さう、と、泣く私を包みこむやうに貴方は私の頭を抱へ抱き締める。丁度良く膨らんだ乳房が、私の頰に當たる。かぶりつきたい。貴方を、貴方の傍にずつと居たい。例へ屆かない距離であつたとしても。
 枯れさせたくても枯れてくれない。ならば私は、一生咲いて生きていくしか無いではないか。――くたばってしまえ。私は靜寂と貴方に包まれ、最初の涙をたゞゝゞ零すのでした。

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